こんにちは。BlissBliss⋆*@テキトーでもうまくいくです。
高待遇で人間関係もすこぶる良い、いわゆる超ホワイトな会社を都合で辞めた時、
後になって辞めたことをウジウジ後悔してしまった時があった。
もっと自分が工夫をすれば良い職場環境に出来たかもしれない…。
もっと自分のメンタルが強くて我慢さえしていれば乗り切れたかも…。
あるキャリア相談で、コンサルの方が、
「どれだけ高待遇でホワイトで人間関係良好な会社であっても、働くのは「あなた」である以上、
あなたが合わなかったらその会社は無視しても良い。もっと自分目線に決めて構わないのですよ^^。」とおっしゃり、
目の前が急にパッと晴れたことを思い出した。
自分が辞めると決めたのならそれで良い。何で後悔していたんだろうと。
あれだけウジウジ悩んでいたのに、見方をちょっと変えただけでウジウジは霧散し、その日から辞めてしまった会社のことはキレイさっぱり忘れてしまいました。
他人の意見がいつの間にか自分の意見になっている
私たちは日頃から周りの人の目から見た自分の姿、つまり「他人目線」ばかり気にしている。
自分をもっと客観的に見よう、主観で見たら周りが見えない、とね。
日本人は気質的に集団の「和」を重んじることがあるので、幼いうちから学校では協調性や客観性を身に付けるよう教育されるのは周知の通り。
心のどこかで、自分なんかより、みんなの方がいつも正しく公正であると信じている。
転職をしようと考えれば世間一般的にこの会社はどうなのだろうと口コミサイトを比較して、スマホでニュースを見ればこの人の行為は社会的にどうなの!?とモヤモヤして、服を一着買うにしてもこの色は周りから見て似合うのだろうかと迷いだす。
そこに居るはずのない「誰か」からの目線を求め、毎日何かしらの物事を「他人目線」でジャッジしているににさも自分が意志を持って決めたのだと思い込んでいる。
「私は私」と、やけに自分を主張している人に限って、無意識に周りからの意見や批評を気にしているからこそ「私は私」と主張しているのだ。
もっと主体的になろう
もっと自分主体で良い。
何を見るにも「一人称」で良いのだ。
もちろん主体的でいようとは、周りの迷惑考えずワガママに振る舞おう!という意味ではない。
あの人はどう思うかじゃなく「自分は」どう思うのか、友達や雑誌やメディアがオススメする楽しみ方じゃなく「自分が」やりたいことなのか、
主体的でいるということは、どこまでも自分=一人称で考えることだ。
ずっと一人称でいれば、「これをやってあげたから、こうしてもらえるはず…」なんて甘い見返りも期待しないし、ああしろこうしろと世間や社会のうるさい声なんてのも聞こえなくなるので自分に素直でいられる。
一人称でいるうちに世界が周りだして勝手に展開していき、気がついたらあれ?みんなうまくいっているとなる。
今、苦しい人へのヒント
もし今、八方塞がりでどうしようもない状況にいたら、一つ実行してほしいことがある。
それは「今日から周りの人が全部消えた」と思って生活すること。
周りにいる人たちは、よく出来たAIになってしまって、「意識」があるのは自分だけしかいない、そんな世界に迷い込んだと思って生活してみること。
最初は半信半疑でもやってみるとすごく心がラクになり、自分を縛っていた「他人目線」の制限がなくなるので、自ずと主体的に考えられるようになる。
今までは躊躇して言えなかったことをあの人に伝えても、あなたが予想した「怖い反応」なんて返って来ず、むしろ肩透かしを食らうこともあるはずだ。
いかに今まで自分が「他人目線」で生きていたこと、さらに自分が作った「他人目線」によって自分を縛っていたことに気がついて笑ってしまうかもしれない。
今まで誰と戦ってたの〜??って。
一人称な状態、主体的でいると不思議とどんどん肩の力が抜けて自分はリラックスしているのに、周りの物事は勝手に加速するというパラドックスを経験するはずだ
あれほど社会の嵐の中で飛ばされまいともがいていたのに、風に乗ってスイスイと飛ぶように、物事が流れ出してうまくいくようになる。
テレビの中のコメンテーターも、目の前の口うるさい上司も、あなたの中では精巧に造られた「AIロボ」と何ら変わりはありません。
何も怖くありませんよ。
ではでは。