テキトーエレガンス

テキトーでも人生うまくいく!

あなたがうまくいかないのは「答えは一つしかない」と思っているから


こんにちは。BlissBliss⋆*@テキトーでもうまくいくです。

「ラテラル・シンキング」の本を読んでいたのですが、面白いですね。

物事を順序立てて論理的に考える「ロジカル・シンキング」はどこかで聞いた事があるかもしれませんが、ラテラル・シンキングは全く正反対のアプローチから物事を考えます。

「これは○○だ」という前提があったら、それを取り払うことでありとあらゆる可能性から物事を考える方法がラテラル・シンキングであり、先述のロジカル・シンキングとは正反対にあると言えます。

頭を柔らかくして解決法を導き出したこんな事例をもとに、一緒に考えて見ましょう。

Q:クリスマスツリーを教室に飾りたいのだが、あいにく教室内は狭くツリーを置く場所がない。
先生はある方法でこの問題を解消して、教室に飾られたツリーを見て生徒は大喜びした。
先生はどうやって狭い教室にツリーを飾ったのでしょう?

一緒に考えてから下にスクロールしてくださいね。

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小さいツリーにした、ツリーの絵を描いて飾った、ツリーを上から吊るした、こんな感じで思い浮かびましたか?

他にありますか?

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正解は、

A:ツリーを縦に半分に切った

なるほど。これなら狭い教室内でも半分のスペースで置けて、さらに壁にピタッと寄せることができる。外から見てもちゃんとツリーの形をしていますね。

答えを知った後なら、な〜んだそんなことか!と簡単に答えを導き出せるように錯覚するのですが、ツリーは壊さず形を保つべきだと固定観念があると、ツリーを半分に切るといった発想はなかなか出てこないでしょう。

しかし世の中には、頭が柔らかい天才がいることをご存知ですか?

子供です。

子供にはまだ「固定観念」がないため、決まった枠の中だけではなく色々な可能性から答えを探してきます。

大人たちが「仮説」を眺めてウンウン頭をひねっても出てこない答えを、子供はいとも簡単に答えて大人を驚かすことがあります。

何でこんなに頭がカチカチになっちゃうのでしょう??

誰でも子供の頃は柔らかい頭を持っていたのに、成長して社会性が身につくうちに、自分はこう思っているけど、周りや社会的にはこっちの意見が尊重されると学習して、意思や価値観などは決まったパターンに固定されています。

テストの答案用紙には一つの答えを求められ、それ以外の回答はダメだと教わります。画用紙に青く塗られた太陽を描くと先生は困った顔をするはずです。

こうだから、こうなるのだと、物事には「原因に対してその結果」があるのだと教えられる、私たちは小さい頃から「みんな一緒」が良しとする画一的な姿勢であることを求めらてきたのではないでしょうか。

「大人になるということは諦めていくことだ」と誰か言っていましたが、成長するにつれ、親や先生、周りの人が「こうあるべきだ」と道を示すことで子供は疑うことなくそれに従おうとします。

なぜなら、その方が生きていく上で楽だから!

”ちょっと違う”自分の意見はなかったことにして、”大多数の人がどう考えるか”の意見に合わせちゃった方が上手に社会に溶け込んで生きていけるからです。

あの時、反対する親の意見なんて聞かずにやっておけば良かった…

人からどう見られているかなんて気にしないで取り組めば良かった…

友達の誘いをさっさと断っていればもっと勉強する時間があったのに…

恥ずかしいからなんて遠慮しないでチャンスを受け取っておくんだった…

あなたが過去に、やらずに後悔していることを思い出してみると、周りからどう思われているかを気にしていたり、周りの否定的な意見を鵜呑みにしてしまった自分が浮き彫りになってきます。

あなたはいつも、先生や親、周りの意見をよく聞く「良い子ちゃん」だったのではありませんか?

若かった頃に自分が信じていた主体性なんて、所詮は大人から見て都合の良いものだったのかもしれません。

「当たり前」と思うことを疑うとラクになる

自分が周りに合わせるために捨ててきた価値観ってどんなものがあるだろう、

子供の頃はどんなに悪ガキでもあまのじゃくでも今やすっかり「社会人」となったあなたは、小学生が答えられるなぞなぞすら解けないはずです。

社会に適応はしているものの、なぞなぞに答えられない「カチカチ頭」を作ってきた元凶って何なのでしょう?

カチカチ頭を作る元となるのが「観念」と言われるものだったりします。

観念とは、あなたが生活していく上で固く信じていることや、こうだと思い込んでいること。

↓↓

「ポストは赤い」「車は道路を走るもの」「目は2つある」

これらはあなたが今まで見聞きしたことで、その存在は”そういうものである”、と信じています。

実際に目で見て信じてきた観念以外にも、よく分からないまま勝手に信じ込まされていることの方が多いかもしれません。

例えばこんなのとかね。

↓↓

「大企業に入れば幸せになれる」「高収入の人と結婚すれば幸せになれる」

「就職しないと生きていけない」「必ず貯金すべきだ」

「世の中お金さえあれば何とかなる」「健康でなくてはいけない」…etc

人の数だけ目に見えない観念は存在するはずです。

あなたが強く信じ込んでいる価値観や観念には、あなたが心から同意したものではなく、いつの間にか親や他人から植えつけられたものが潜んでいます。

小学一年生の時、学校の先生はこんな問題を出しました。

1+1=○

ほとんどの人は「2!」と即答するでしょう。

学校での答えは「2」であり、それ以外に答えはないと教わるからです。

「答えは一つ」この考え方が一生誰かを苦しめる大きな足枷になるとも知らずに。

答えが○か×しかない求め方は人の考え方の幅を大いに狭めてしまいます。なぜなら、こじつけではなく「1+1」の答えはたくさんあるからです。

ナゾナゾのように「1+1は田んぼの田!」でも良いのです。

「1+1=」の形をじっと見ていたら泣いているウサギに見えてきたとか →(=T+T=)

芸術家に答えを聞いたら、1+1は無限大だ!と返ってくるのかもしれません。

さらに禅問答の世界では「1+1=は答えはない!”1+1=”それ自体だ!」と一瞬ふざけたように見える真面目な答え方があります。

「答えは一つしかない」という考え方は、捉えどころのない柔らかい思考をマッチ箱の中にギュウギュウと押し込めるようなもの。

答えは一つしかないと信じていると、自分の意見を無視して周りから受け入れてもらえそうな答えを探したり、みんなに叩かれない無難な答えを導き出そうとします。

そんなことを繰り返しているうちにどんどん自分の意思や意見は追いやられ、あなたの頭の中は周りの意見でいっぱい。自分の意見を持っていたことすら忘れたあなたは、社会に同化して溶け込んだ時にふと思い出すのです。

「あれ?私って何だろう?」
「やりたいことって?」
「何を目指していたんだろう?」

自分が良かれと信じていた意思なのに、周りが良いと思った物事や考え方に占領されて、何が好きなのか、何をしたいのか分からなくなっているのです。

他人の考えは正しいとは限らない

答えは一つしかない、

知らない間に、あなたの家に赤の他人が上がり込んで生活しているのと同じことが起こっています。

あなたの「ふり」をしてあなたの家で生活をしている他人を見て「この人…私?」と言っているのです。

違います。その人は他人です。

あなたの家に暮らす「他人」はなんと、一人だけではなく、クローゼットの中にも、キッチンにも、トイレに身もいるではありませんか。

なんで~~っ!?いつの間に私の家に上がり込んでたの???

絶句するあなたを尻目に、キョトンとする赤の他人たち。

聞けば、赤の他人たちに家を使わせて、自分は狭いクローゼットの中で寝起きをしていたというのです。

他人同士は少しの間お互いを見つめ合い、口を揃えてこう言いました。

「私たち、あなたがここに住んで欲しいというから来たんですけど?」

もうお分かりですよね。

他人とは、あなた以外のものから知り得た価値観や観念です。

親が口を酸っぱくしてあなたに言っていたことかもしれません。友達がくれたアドバイスかもしれません。TVやメディアで知り得た情報かもしれません。

あなたの家とはあなたの心の中のスペースそのものでしょう。

心の中は「あなた以外のもの」で占領されて、その代わりにあなたの本心は隅に追いやられていませんか?あなたの家は他人の価値観や考え方でいっぱいになっていませんか?

あなたが正しいと信じている価値観やこうすべきだと信じている観念などは、誰かによって塗り替えられた他人の基準なのかもしれません。

前まで私も、自分の意見よりも他人の意見こそ正しいと信じ込み、他人の意見にずっとしたがってきたのですが、

自分を見つめて他人の意見の陰で埋もれてしまった微かな自分を探り当てることで、自分を占領していた「自分以外の誰か」の価値観を追い出し、心身ともに健康になることができました。

何か動きたいのに動けない、変わりたいのにずっと何もしないままになっている、何かが自分にブレーキをかけている気がする。

そんな時こそ、ちょっと立ち止まって他人の意見や価値観に振り回されていないか考えてみてください。

理想の”○○像”なんてありません

こうやって生きていけなたら良いな〜と思い描かれた理想の姿はどこにでもあります。

学校では、部活や勉強に何事にも真剣に取り組み、真面目で積極的な生徒像を求められたでしょう。

人気ドラマの主人公は都心で働いて、イケメンと恋に落ちる「理想のイケてる女性像」、雑誌では八頭身のモデルがイマドキの格好をして、憧れのブランドバッグを片手に颯爽とポージングしています。

結婚して子どもを持っても「理想の○○像」は見逃してくれないどころか、世間からはさらに厳しい目で見られることになります。

人はみな「理想のママ像」や「理想の父親像」を学ぼうと必死になります。そこへ「理想の奥さん像」も加わるともう大変。

母親はこうあるべきだ、父親とはこうあるべきだと周りの「子育ての先輩たち」から言われ、子供が少し大きくなったら親として恥ずかしくないよう、保護者としてのあるべき姿を求められます。

私も、以前は「理想の母親像」に近づこうと必死になり、シングルマザーになってからは「理想のシングルマザー像(何だそりゃ)」に苦しめられたこともありました。

理想像に近づくことはできても、みんなから見て100%理想の姿になることは不可能なので、や〜めた!と早々と戦線離脱して「テキトーママ像」を謳歌していますが、すんごくラクです。

多分人に言ったら「それでも母親か〜!」と怒られてしまうかもしれません。

しかし、理想の母親像に縛られていた時よりはテキトーな方がずっと子どもが健全に育ち、私もストレスがなくなり、困った時は手を差し伸べてくれる人がどこから現れ、なぜかお金も入ってくるようになりました。

え??お金??と思うかもしれませんが、世の中は「パラドックス」なのです。

私はもっと自分らしく生きていると思うなら大丈夫。

もっとこうあるべきだ、こうしなくてはいけないと駆られる気持ちがあるとしたら、もしかすると、あなたの中にありもしない「理想の○○像」がデーンと鎮座していませんか?

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「1+1=2だ!」と主張する他人の意見の陰で、あなたの意見が「”2”以外にも答えがあるよ!」と気づいて欲しくてサインを送っていませんか?

本当はこれがやりたいんじゃないのか、自分はやりたくないんじゃないのか、本当の自分の意見に気づくことができたら今の状況から一歩前に進めるかもしれません。

ではでは。