話題の新書「ケーキの切れない非行少年たち」を読みました。
メディアなどで取りざたされ、衝撃を与えた「帯」のイラストはどこかで見たことがあるかもしれない。
円の中を自信なさげに線が引かれ、一部分には小さい区切りも出来ている。
キャッチ文が目に入ることで衝撃を受けることになる。
「このケーキを○等分してください」と指示された非行少年はこんな線を描いたという。
いったいどう考えたらこんな線になるの??
ふざけてるんじゃないの〜?
もしそう疑うことができるなら私もあなたも幸せだ。
事実、ある立場に置かれた子ども達にはケーキがこのように見えているのだ。
本書では、健常者のはざまで”忘れ去られた”子どもたち、軽度知的障害(境界知能)を持つ子どもたちについて書かれている。
めちゃくちゃに区切られたケーキの絵が意味するものとは─。
「となりの問題児」は境界知能かもしれない
「ケーキの切れない非行少年」とは、ケーキを○等分に分けるカンタンな動作が、社会や物事が”歪んで”見える障害のためにケーキを適切に切ることができない少年たちのこと。
軽度知的障害があるのに適切な支援を受けることができず、見過ごされたことで社会と軋轢ができてしまい、結果的に犯罪を犯してしまった少年少女たちのレポだ。
冒頭のケーキがイビツに切られている帯の絵の話は、障害によって社会が歪んで見えている子供たちを象徴する出来事として描かれている。
犯罪を犯して少年院に入ってしまう子供たちの中には、軽い知的障害を持っていたり、ADHDやアスペルガーなどの発達障害を持っている子が存在するという。
彼らは障害の特性によって「AをするとBになる」と、行動の先を読み見立てをすることが生まれつき苦手なため、衝動的に性犯罪に走ってしまったり、良いことと悪いことの認識が乏しさから悪いセンパイの言いなりになって犯罪行為に手を染めてしまう。
さらには家庭環境を調べてみると子どもへの虐待があったりする。虐待をしてしまう親にも高確率で何らかの障害(知的障害・発達障害)が見られ、見過ごされて大人になっている悪循環に陥っているケースが多いのだそうだ。
さて、以下はあくまでも個人的な意見なのでご了承いただきたい。
子どもの親ならば一度は「障害」について見聞きしたことがあるだろう。健常と障害は紙一重であり、人ごとではない話だ。
障害のあるなしは、早ければ一歳児健診、遅くても三歳児検診や幼稚園などで見つかることが多く、障害のある子どもへの療育はなるべく早く始めた方が良いとされる。
”目に見えるかたち”で障害を認知されたお子さんは早いうちから支援が届き、手厚い療育を受けることができる。
しかし中には一見すると障害が分かりずらい健常と障害の境界「ボーダー」にいる子がいる。
知的(発達)ボーダーの子は幼稚園・学校という集団生活が始まると大きな壁にぶち当たる。障害ゆえにみんなと同じように物事を捉えることが難しく、当然、みんなと同じ言動が出来ない。
規律や協調性を求められる学校生活では、「問題児」「ちょっと変わった子」「躾ができていない子」としてクラスの友達の中で孤立してしまいやすく、障害が軽いために、みんなと違う行動が障害によるものなのか「個性」によるものなのか誰にも分からないまま大きくなるまで放ったらかしにされる。
ボーダーの子は社会性が身についてくる小学4年生頃には「ちょっとヘンな子、足りない子」としていじめの対象になったり、女子グループから仲間はずれにされるなどして排除されてしまう。
「ちゃんとした子」ばかりの普通学級で、ボーダーにいる子どもはどんどん置き去りにされていくという構図が出来てくるようだ。
私も子どもがいるので、こういった放置されている子どもを見てきたし、ママ友の間で「あの子もしかして…?」と障害を疑っても、その子の保護者はおろか周りに言えないのが現状である。
「出来ない」ことで自己肯定感を失いやすい知的ボーダー
一般的に知的ボーダーの子はみんなと同じように出来ないことを責められ続け、逆に褒められた経験が少ないため自信を失いやすいようだ。
子どもの特性を理解してくれる小学校の先生と出会うことで一旦は問題行動がなくなるものの、中学校に入ると魔法が解けたかのように勉強についていけなくなり、親や先生からは疎まれ”ぼっち”になる。
ここまでくると自分を認めてくれる”悪いセンパイ”に居場所を求めて非行に向かうのは時間の問題なのだ。
少年院に来た少年(少女)は若くして犯罪に手を染めている。幼女への性犯罪、悪いセンパイとつるんでの非行、万引き、恐喝…
手を差し伸べても非行少年の親がその手を振りほどき、家庭に恵まれない非行少年は”悪いセンパイ”との絆を一層深めていく。
少年院にいる元非行少年の一人は、小学二年生ぐらいですでに勉強についていけず万引きを繰り返してしまったという。検査をしたところ知的障害があった。小学二年で万引きとは…言葉が出ない。
非行少年(少女)と接するカウンセラーの方に聞いた話では、一旦、悪いセンパイとの間に絆が出来てしまうとその関係を周りの大人引き剥がすことは不可能なのだそうだ。
心のよりどころを「悪いセンパイ」に求めてしまうからなのか、周りが見えにくくなってしまう障害特性によるものなのか、もっと複雑な要因があるのかもしれないが、移ろいやすい子どもの心を健全にしていく難しさを感じた。
健常と障害の”はざま”の子どもたち
「ケーキの切れない〜」を読む前に、過去に『はざまのコドモ 息子は知的ボーダーで発達障害児』沖田
「障害の程度が軽いから」という理由で行政からは障害者向けの支援が受けられず、かといって普通のクラスは全くついていけないどっちつかずの「はざま」で悩む、そんなボーダーの子どもを取り巻く現状を描いた漫画で、「はざま」の子どもたちが放置されている現状に衝撃を覚えた一冊だ。
主人公の長男・ヨシ君は、小さい頃から育てにくいと感じた母親によって病院に連れて行くのだが、様子を見ると言われ続けてしまう。母親の中で疑いは膨らむものの、そのまま小学校に入学。案の定ヨシ君は学校でさまざまな問題を起してしまい、理解のない教頭先生から心ない罵倒を受けてしまう─。
やがてヨシ君は病院から「
しかし、ヨシ君は発達障害があっても知的ボーダーなため、公的な支援を受けるための知的水準に満たしていない。いわゆる障害ラインギリギリなためか「知能が高い」と判断されて療育手帳をもらうことができず、特別支援学校に通うことができないのだ。
二転三転する学校の対応や教育委員会に振り回されながらも、ボーダーの子どもが安心して通える居場所づくりに向けて母親は一人、誰の助けもないまま孤軍奮闘する。
母親は決して学校側に無理難題を押し付けている訳ではない。息子をどこかに入れて欲しいとあくまで謙虚な姿勢である。それでも「ちょっとした障害」のために理解されることはなく、法律基準「外」のため、どこへ駆け込んでも「うちではない」と突っぱねられてしまう。
どっちつかずの子どもは支援からこぼれてしまう現状があるようだ。
漫画では沖田氏のタッチによってコミカルに描かれているが、孤立無援のヨシ君の母親の気持ちを思うと涙が出てしまった。
その報われない悔しさは親の立場として手に取るように分かり、胸が張り裂けそうになった。
著者のマンガ家・沖田
「はざまのコドモ」の知識があったおかげ(?)か「ケーキの切れない〜」はすんなり受け入れることができた。
著者は、もし子供が知的に問題があったとしても早い段階でトレーニングを重ねることによってある程度ソーシャルスキルの改善が出来るとしている。
果たして「はざま」にいる子どもたちが必ずしも適切な療育を受けることができているのだろうか疑問は残る。
まとめ
教育現場や学校にいるスクールカウンセラーや支援級・通級指導教室の先生にとって、本書の内容は特別目新しくもなくよく見聞きする話だという。
しかし、子どもの保護者や子どもとは関わりのない生活を送る一般の人の間ではケーキの切れない子供たち=支援からこぼれてしまった境界知能の子供たちの存在があることさえも知られていない。
本書に出てくる「境界知能」「WISC(ウィスク)」「ワーキングメモリ」など子育て中の親ですら普段聞きなれない用語が出てくるが、これらの用語を知っている親は知っているし、知らない親は知らないまま今後も耳にすることすらないかもしれない。
「ケーキの切れない〜」が一般の人に読まれ、支援のはざまに落ちてしまった子供たちの存在が日の目を見ることにつながると良いのだが。
障害があるのに行政支援の手も差し伸べられないままになっている子どもたちに一日も早く手が差し伸べられ、適切な支援や療育を受けられるよう願ってやまない。