何から書けば良いんだろう。
身も蓋もない事言ってしまうと、読んだことを思いっきり後悔した本がある。
読み終わって静かにページを閉じた私の心を、悲しみがじわ〜っとまるで水に落とした墨のように広がって侵食していた。
深く考えさせるなんて言葉では言い表わせないくらい、見てはいけない深く暗い谷の底を覗き込んでしまったような罪悪感を味わった。
「観たら体調を崩す」「後味が悪すぎる」とまで酷評される映画『ダンサーインザダーク』が上映された頃、流行の映画だからと軽いノリで観てしまいその日一日中陰鬱な気持で過ごさなければいけなかった人は多いだろう。(私もその一人だ)
なぜ鬱映画なのか。そりゃもう、主人公に救いがないからだ。ネタバレしちゃうが最後は主人公が死んじゃうし。
誰も救いの手を差し伸べることなく、傍観者である私たちはビョーク(役の名前忘れた)が堕ちていく過程をただ観せられたあげく、最後もトドメを刺すかのように後味の悪い終わり方をされて、感情ごと置いてきぼりにされる。そんなクソ…いや、鬱映画だった。
本書はそれ系の鬱本だ。間違いなく後味悪くなる本だ。
あの世とか幽霊などオカルト的な現象を信じない人はまずこの手の本は読まないだろうし、何かの信仰があったとしても、温めていた信仰をバシャリと冷水をかけられた気分になることは間違いない。
死者に憑依された女性とお寺の住職が体験した数奇な運命
それは『死者の告白 30人に憑依された女性の記録』という本だ。
タイトルにある「死者」とはそのまま、亡くなった人の霊魂を表している。「怖い話」とか「怪談」とは全く違う、悲しい物語が淡々と語られる。
この本を『現代ビジネス』で知り、本の抜粋を読んだことがきっかけで興味を持った。
舞台は宮城県の歴史ある古いお寺・通大寺。
そこの住職である金田諦應氏は、本職とは別に除霊などを行なっているのだが、ある日切羽詰まった様子で女性が電話をかけてきた。
女性はいわゆる”霊感体質”のようで、霊によって体を奪われることが続き困っていると言い、藁をも掴む思いで通大寺の金田住職まで訪ねてきた。
その女性は「高村英」さんと言い、著者が優しげな雰囲気のOLさん風だ、というほどだから、そういう”霊感”を持っているということを感じさせない、どこにでもいる感じのイマドキ風の女性だということが文面から伝わって来る。
死者の霊魂は高村さんに取り付いては離れ、ひっきりなしに新たな霊がやってくるのだけど、その霊の除霊をひとつずつ続けていくうちに、高村さんにやってくる霊の共通点に気づく。
それらの霊はみな、先の東日本大震災で犠牲となった霊魂だった。
高村さんと金田住職の住まいがある宮城県は東日本大震災の津波によって特に多くの犠牲者を出した所だ。
高村さんの体には、その震災の犠牲者と思われる霊魂がひっきりなしに出入りし、死に際の苦しさや悲しみを訴え続けるのだという。
「未成仏霊」とか「地縛霊」なんて一言で片付けたくないが、多分そういった場所に留まってしまった魂が高村さんの口を借りて思いを遂げようとし、それを住職が死に物狂いで除霊をする、一連の”除霊儀式”の描写には思わず見入ってしまう。
犠牲者の魂が語る「死ぬ瞬間」と「死んでからのこと」
2011年の東日本大震災で犠牲となった人のほとんどが、沿岸を襲った大津波によって命を奪われたことはよく知られている。赤ちゃんから高齢者まで約2万数千人の人の命を津波が一瞬で奪い去った。
高村さんは犠牲者の霊魂に乗り移られている時、体を霊魂に明け渡し、霊魂は高村さんの口を借りて、この世で生きていた頃の口調でさまざまなことを語り出す。
学校から集団避難する途中に津波の犠牲となった10歳の女の子の声、妊娠していて走ることができず津波の犠牲になった女性の声、震災で妻と愛娘を一気に失い、絶望の底で自死を選んでしまった男性の声、そして原発の事故で命を落とした若い男性の声…
霊魂に体が乗り移られているとき、高村さん自身の意識は遠くでその様子を眺めている状態になり、その時はじめて死者の霊魂が見えるのだという。
姿が見えるとハッとするそうだ。なぜなら、どの霊魂も犠牲となった当時の服装のまま、頭から爪の先までびっしょり濡らし、そこらじゅう傷だらけのまま、暗闇の中をさまよっているのだから。
霊魂を暗闇から救い出すには、その暗闇の中にぽっかりと浮かぶ光を見つけてその光の中へ入らなければならない。金田住職と高村さん・金田住職の妻が一丸となって除霊でさまよえる霊魂の手を取り、一緒に「光のさすほう」へ導いてやるという作業を繰り返す。気の遠くなる作業だ。
ある日、自分が死んだことに気づいていない30代くらいの男性の霊魂が高村さんに乗り移る。
「これから娘を迎えに行かなくちゃいけないんだ!誰だてめえ!」と金田住職に暴言を吐く。
聞くと、地震によって学校へ留め置かれている娘を車で迎えに行く途中なんだと男性(の魂)は言う。娘を迎えに行こうと車で飛び出した道すがら、車ごと津波に流されて男性は命を落としていた。
ニュースなどで繰り返し報道されている事実として、地震の影響で学校や職場に足止めされてそこで津波に遭遇した人、学校に待機した子どもや家族を迎えに行こうとする途中で車ごと津波に飲まれてしまった人など、ほとんどの人は大津波が来ることを直前まで知らないまま犠牲となっている。
壮絶に語られる『死ぬ瞬間』のこと
死者の霊魂に憑依されるたび高村さんを苦しめること。それは何より、死者の魂が死ぬ時の瞬間を思い出す「追想体験」をすることなのだそうだ。
高村さんから語られる『死ぬ瞬間』は目を背けたくなるような凄惨な描写が多く… ちょっとだけ感受性の強い私は、ここだけは読むのもしんどかった。
案の定、読み終わった後には暗澹たる気持ちを引っ張ってしまい、ちょっとメンタルにきてしまった…。
なので今さらだが、東日本大震災を経験している人は読まないほうがいい。
当時の記憶がよみがったりしてメンタルや体調を崩してしまう可能性があるので、マジでやめた方がいい。
一般的に東日本大震災で犠牲となった方の多くは津波による『溺死』が多かった。これは震災の犠牲になった霊魂の除霊を続ける高村さんにとって、霊魂が経験した溺死の苦しみまで共有することになる。
鼻や口や耳という穴という穴から海水や泥水が流れ込んでくる感触、肺いっぱいに水が入り息が出来なくなり─やがて意識が遠のく。高村さんは憑依されるたび、何度も何度も文字通り、死の苦しみなを経験しなくてはいけないのだ。
除霊が終わると満身創痍になり、除霊のたびに高村さんは毎回へとへとになり、あまりにも壮絶な除霊だったりすると一週間寝込むこともあるという。
そこまでして除霊を続けるうちに、高村さんと金田住職は、死者に対しての憐れみとか同情の気持ちよりも、流れ作業のようになるのだそうだ。
日本人の死生観に異議あり!
何とも例えようのない本だが、意外なのは金田住職がこれらの除霊体験を『物語』としているところだ。
本来ならお寺の(しかも歴史ある古寺)住職さんなら、一番あの世とか霊魂に近い存在のはず。しかし、金田住職は霊の存在は否定しないけども、高村さんの憑依体験や光の射す方へ霊魂を送り届ける一連の過程はあくまで『物語』だとしている。
この本の著者もスピリチュアルに理解ありそうなタイプではなく、一連の除霊が一種の『物語』だと連想させるように、遠野物語の一節を引用する場面もあったりと、中立的なスタンスであることを匂わせている。
本の中では、震災で犠牲となった魂が今もなお暗闇の中で彷徨っているような場面が出てくるが、この辺に関して私はNO!と言いたい。
日本で生まれ育った私たちには仏教的な教えが根強く残っていて、仏教に限らずとも、自殺はタブーであり、なかには「自殺したら地縛霊となってその場に留まってしまう」なんて脅しのような教えも一度や二度どこかで聞いたことがあるはずだ。
『死は終わりではない』の著者であり、あの世(!)から通信でこの本を書き上げたというエリック・メドフス君は、自殺によってすでにこの世を去っていて今は「魂」の立場になっているが、世間で言われる「自殺したら天国へ行けない」なんて教えとは全く無縁の充実した生活を今でもあの世で送っているという。
事情はあれ、自ら命を絶ってしまったハズなのに。
これがホントかどうかは分からないが、だとしたら、不幸な死によって魂は行き場を失い闇の中で彷徨ってしまうだの、自殺してしまったから天国へ行けないだの、それらはまさに生きていた時に信じていた「死んだら多分こうなんじゃないか」な死生観をそっくり自らで再現していることになる。
この世ではノルウェー系アメリカ人(だった?)のエリック・メドフス君はおそらくだが、アメリカの一般的な教養を受けているし、クリスマスには七面鳥にクランベリーソースをかけてパーティするごくフツーのアメリカ人青年だ。
本人は無宗教に近かったとも公言しており、まあ熱心なクリスチャンだったら教義の上でタブーである自死は選ばなかっただろうし、「死んだら天国へ行けなくなる!」とまでは信じていなかったのだろう。
なので、どうせならみんな天国行ってハッピー!みたいな、アメリカや他のキリスト教圏のような明るい死生観があったら天国へ行けるんじゃね?と思っている。
こんなわけで、私としては半信半疑のスタンスのままであり、金田住職が言う『物語』なのかもしれないと余韻を残したまま本を閉じた。
都市伝説のおなじみフレーズ「信じるか信じないかはあなた次第です。」そのまんまの世界だが、もし物語とは言え、もし少しでも物語を信じることができたら、心の中で犠牲者にそっと手を合わせることが魂の一番の慰めになるかもしれない。
ではでは。