テキトーエレガンス

テキトーでも人生うまくいく!

隠れたベストセラー「生きがいの創造」を読んだ。家族を亡くした人達の救いがここにあった。


人生も大台に差し掛かりあと数年でやってくるアラフォーが怖いです。

こんにちは。Bliss(Bliss⋆*@テキトーでもうまくいく)です。

スゴい本を読んでしまった。

迂闊にも涙が止まらなかった…。


この本は私の生半可な「スピリチュアル」知識は切り裂かれてズタズタ。

読後もしばらく不思議で暖かい余韻に包まれています…。

自分の中の”ヤワな死生観”が揺らいでしまった本

単刀直入に言えば「生まれ変わり(輪廻転生)」や臨死体験の話、「魂」は存在するのかを科学者達が超真面目に研究したお話。

この本の著者も、この手のお話に拒絶反応を示す人は多いこと、特に「前世」とか「生まれ変わり」については世界各国で賛否両論分かれて議論が続いている話題であり、信じるか信じないかは読者にお任せする、と前置きをしています。

著者の飯田史彦氏は前世研究の第一人者で「前世療法」のブライアン・L・ワイス 博士とともにその世界では有名な方のようです。(「前世」と聞いて「君の名は」の主題歌「前前前世」のフレーズが出てきたあなたは正常です。)

この本自体はかなり古い本で初版が1996年。

何度か加筆されているようなので共感され続けているベストセラーなのかもしれません。

”この世”の人は知るよしもない”向こう側”の世界である「あの世の世界」や「前世」といった世界は、一歩間違えると怪しい世界に突っ込んでしまう危険さをはらんでいます。

目に見えず、誰も見たことがない。

堅実な科学者たちは最初から前世を探ろうとしたわけではなく、退行催眠の一環としてどうしても「前世」という存在を否定しきれず、前世研究が進んだ経緯があるそうです。

当初は患者の幼い頃の記憶へとさかのぼり治療をする”心理療法”の一環として催眠をかけていたのですが、「勢い余って前世まで遡っちゃった」なんてことが繰り返されていくうちに前世の存在が浮き彫りになり、科学者たちも「前世はある」と確信するようになったのです。

そこから性別・人種や職種問わず、どの人にも”前世”が存在することを確認していくのですが、本書に挙がっている事例がもし本当だとしたら、どのエピソードも言葉が見当たらないほどリアルに前世の存在をこれでもかと訴えてきます。

すごいのひと言に尽きる。

タブーな「前世のはなし」にも触れる

私も以前は、スピリチュアルなことにも関心があったわりにはどちらかと言えば前世否定派でした。

以前あるTV番組で一般女性が「前世退行催眠」を受ける様子を見て、なんだかなぁとドン引きしたからかもしれません。

「冷たい…!苦しい…!」なんて催眠を施術されている女性がうめき声を出すんですよ。

その女性は過去生(前世)でこんな苦しい思いをして、最期はこうだったなんて内容だったと記憶していますが、眉唾モノなのはおがめず、え?これが前世?話が出来すぎていない?ってそりゃもう興ざめったらない😪。

正直本当かな〜という感想を抱いてどうも胡散臭い雰囲気がぬぐえず、多くの日本人が「前世」なんて触れることも見ることもできない”あっちの世界”の話を聞いて心霊商法を連想させるように「嘘くさ!」って印象でした。

そんなごく一般的な日本人の私ですが。

「生きがいの創造」を読んだ後はちゃっかり前世はあるのかもしれないと肯定派に傾いたのは事実です。


天国にいる死者に会えるなら誰に会いたい?

生きがいの創造
写真はイメージです

この本の中には死者との接触の話もあります。

死者と接触してさらに会話をしてしまおうといういわば「降霊」をした人達の話が出てきます。

霊魂(便宜上”霊”としておく)との接触実験にはまだ幼い息子を不慮の事故で亡くしたお父さんや、他界した父と会いたいと願う娘さん。

さらには20年前にこの世を去った”瞼の裏のお母さん”の魂と接触する話など、いづれの例もごくありふれた「愛する人との別れ」の話であることに驚くのです。

たとえ幽霊でも身内に会いたいと願うのは当然のことであり、接触実験で死者と接触したことによって残された人たちが救いとなり生きていく希望を見いだせるならば、降霊は存在意義があると思うのです。

例えその霊魂が脳の錯覚が見せるものであっても、それ自体がヤラセだとしても…。

事実として、今は亡き霊魂がそばに来て家族に語りかける。家族はそれがニセモノでも何でもなく亡くなった家族だと確信し、圧倒的で崇高な”死者とのつながり”を感じる以上、霊魂を信じる派・信じない派なんて野暮なことはどうでもいいのです。

もっとオカルトチックな「降霊術」にまつわるおどろおどろしい話を想像していたのが恥ずかしくなるくらい、涙が止まらなかった。

天国に逝ったおばあちゃんが側にいて見守ってくれるのだと、今生きている人たちに何らかの心の支えのともし火がポッとついて、今度お墓まいりしようかな、おばあちゃんに手を合わせてみようかな、と思えることがあれば良いのかもしれません。


(c) .foto project

去年亡くなった大好きなおばあちゃんに会いたい。

あともう一人会えるのなら、私には若くして天国に旅立った異母兄がいるのですが、その兄に会ってみたいかも。

異母兄はワケあって養子に出されていたので、

血のつながった実父である私の父の存在どころか、さらにその娘の私の存在なんて知るよしもなく、生き急ぐように不慮の事故で20年の短い人生を終えました。

幸い、日本人にはご先祖様に手を合わせる心を持っています。

自分が今こうして生きているのは脈々と命が受け継がれて来たおかげなのだと実感する良い機会となるはずです。

亡き人に手を合わせる時、おばあちゃんのそのまたおばあちゃん、さらにそのおばあちゃん…と延々と続いて来た命のつながりを感じずにはいられないからです。

「おばあちゃん天国で元気にしているかな?」と亡き人を想うだけでも亡き人と繋がれるということなので、静かに想ってあげることも良い供養になればと願ってやみません。

生きているだけで奇跡の連続

飯田氏は、「あなたの使命!」「あなたが生まれてきた意味!」なんて仰々しいタイトルの本があるけど、あの手の本は焦らせるばかりで何のためにもならない、と安易で使い古された言葉である「人生の使命探し」に苦言を呈します。

ここには私もすごく共感したところです。

こうやってフツーに”生きていること”がすでにあなたの使命であり、フツーに生きてお昼休みに「何かいいことないかなあ〜」とボケッ〜と空を見つめる、

楽しい時は楽しんで、悲しい時は悲しむ。

これこそが生まれてきて人生を”生き切る”そのものなんだと思います。

その昔、「一休さん」のモデルになった室町時代の僧、一休宗純は

「世の中は食うて糞して寝て起きて、さて、その後は、死ぬるばかりよ」と夢も希望もないことを言ってくださいましたが、

「生きがいの創造」によれば、これこそが生まれる前に約束した偉大な人生プランなのかもしれないと覚悟を決めれば、「生きる使命」や「運命の人」を血眼になって探そうと消耗したり、はたまた「自分探し」に躍起になることもなくなるのではないでしょうか。

誰でも「こんな人生やってみたい!」と自分で望んでこの世に生まれてきているわけで、(実際には生まれる所を一緒に選んでくれるコーディネーターみたいな存在もいるらしいが。)

あるがままに「ただ生きている」だけで充分自分の「生きがい」を全うしているんじゃないかな。

一説には悟りの境地にはこの「あるがまま」の感覚になると言いますが、このは深いな〜。

人の生に正解も不正解もなく、全て正解!全てOK!ということなんでしょう。

あれもやりたいこれもやりたいと楽しむ人生もOKだということ。

私は色々なことにチャレンジして懲りずにまだ足掻くつもりです(笑)

神様はいる?いない?という話

科学を究めると神様の存在がいるとしか思えなくなる数々の証拠にぶち当たるそうです。

著書の飯田氏も本の中で、この手の話題は霊感商法の餌食になりやすいので慎重にしたいと述べた上で、

様々な科学者や識者達も一貫して「神様はいる、絶対いる」という見解に落ち着くのだそう。

私はこの辺はアホなので良く分かりませんが、

すべてを動かしている何か大いなる存在がいるということ。

その「大いなる存在」とは仏教でいうところの如来、キリスト教でいうところの神、または宇宙だとしたら、

目には見えないけれど、生きとし生けるものがその”生”を全うできるよう、静かに見守っている存在を感じることができるかもしれません。

著者はあくまでも「前世」とか「魂」などに対して中立的な立場を取っていて、先入観なしでそれらの実証を書いているというストイックな一面も感じられる不思議な本です。

身内や大切な方を亡くされたばかりの人、毎日忙しさに忙殺されて疲弊している人、

「何のために生きているのだろう?」と虚しさを感じている人。

本書はきっと前を向いて今与えられた”生”を生きることを後押ししてくれる本だと思います。

天国の亡き人にそっと手を合わせてつつ、今日も美味しいご飯をいただけることに感謝したいと思います。

うん、美味しい。

生きるって素晴らしい。

いつも読んで下さってありがとうございます。