こんにちは。BlissBliss⋆*@テキトーでもうまくいくです。
ふとある本が読みたくなり、本棚を見たのですが、そこにあるはずの本がない。
おかしい。
本は必ずここに置いているのにないわけないよね、と首をかしげる私。
ないと分かると探したくなるのが人間の常。絶対探してやるとヤケを起こして家中の戸棚をひっくり返して探したのですが、やっぱりどこにもないのです!
(引っ越しのドサクサに紛れて捨てちゃったんだろうか…)
諦め掛けていたその時、衣装ケースの裏に何かが落ちているのを発見。…本です。
(あ、あった!!)そう直感した私は手を伸ばし、若干埃まみれになったその本を手に取ったのですが、なんか違う。
本のカバーを外すとやっぱり探していた本ではありませんでした。
ズコ〜 (┐「ε:)
しかしその時、探していた本よりこっちを読んだ方がいい、そう言われたような気がしたのです。
誰からって?宇宙からです。(※私が”宇宙”と呼んでいるものを”神様”でも”天”でも解釈してもらってかまいせません)
無くした本の代わりにポッと出てきたのはステファン・ボディアンの『過去にも未来にもとらわれない生き方』という本です。名著です。
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もうブレない。目覚めるための具体的なサポート本
この本、数年前に絶版?となったのか、プレミアがつき当時値上がりしてしまったので、仕方なく中古で買った記憶が蘇りました。
懐かしさと、原点に帰ったような清々しさにすっかり心を奪われ、超真夜中にも関わらず読み始めてしまいました。
買って読んだけど中身がすっからかんな、聞こえの良い「スピリチュアル系」の本を、最近思い立って一気に処分したのですが、『過去にも未来にもとらわれない生き方』はそういった本とは一線を画しています。
「引き寄せをしたい!」「願望実現!」「彼氏と復縁をしたい!あれが欲しい!」というような物質的なものを求める人の目の前には現れず、むしろ逆で、そういった物質的な渇望感に飽き飽きして本質に目覚めたいと思った時に不思議と目の前に”出現”する本です。
目の前に現れた時が「読む時」なのです。
数年前までは例に漏れず私も、現実を望み通りに変えたくて足掻いている時だったので、ベクトルが正反対を向いているこの本を読んでもピンとこなかった理由が分かります。
修行のプロ・禅僧であるボディアン氏はなぜ法衣を脱いだのか
著者のステファン・ボディアン氏とは一体何者なのでしょう。
この方はアメリカ人ですが、元僧侶として「禅」の世界に身を置いていたとのこと。
本書ではボディアン氏自身の経緯にも触れていますが、16際の頃に交通事故で母を亡くし、その空虚感を埋めるようにさまざまなスピリチュアルに興味を持ち、本国アメリカで日本人の禅師のもと10年に渡り僧侶として師事してきたそうです。
”お坊さん”というと日本ではお寺のお坊さん=住職さんを連想してしまいますが、ボディアン氏の場合「僧侶」の方が合っているのかな。
僧侶としての道を選んだ動機もさることながら、”目覚め”に対して相当高いポテンシャルを持っていたと告白しています。
曹洞宗や臨済宗などの知識を習得し、座禅はもちろんのこと難しい
皮肉にも、修行の一切合切に疲れて、法衣を脱いで禅寺を去った時に”それ”は訪れたそうです。
目覚めは外の世界のどこかではなく「あなたの内」にある
何年も経った後、私はとうとう家を見つけました。そこから離れたことなど一度もないと分かったのです。 老師が言ったように、それはもっと近いところ、自分のホームグラウンド、つまり、この目を通して見ているもの、この考えを起こしているもの、この両手、両足を動かしている、沈黙の「存在」(現存)だったのです。
氏は決して禅を否定しているわけではありません。(むしろ禅の知識に関しては身を置いていただけあってズブの日本人よりはめっちゃ詳しいです。)
難しい公案や禅を「修行」だと捉えて、答えや救いがあるはずだと”外”に探そうとする限り永遠に見つからないものだと主張は一貫しています。
道元禅師や白隠禅師が残した言葉には、修行をして鍛錬を詰めば悟れるなんて一言も書かれておらず「
「真実はどこかに遠くにあるものだと探し回った挙句、目の前に真実を見つけたエンド」は聖書の話にも見られ、「放蕩息子の話」は特に有名ですね。(ググってね!)
パウロ・コエーリョの『アルケミスト』の主人公も、たくさんの旅を重ねて「家」に帰ってくるというお話です。
あなたは、今までずっと、感情や記憶、性格、思い込みなどの特定の「集まり」を、自分と思い込んできたのです。 第5章 今、ここを経験しているのは誰なのか より
真理は「外」にはありません。
意識を外から「内」へ向けて「宇宙」に触れるにはどうしたらいいのか。何より、どうしたら目覚めることができるのか。
あっちの教えが良いと聞いたらあっちへ行き、こっちのスピリチュアルが良いと聞けばこっちへ行ったりと、現代の人が陥りやすい「スピリチュアル・ジプシー」を例に挙げています。
ボディアン氏自身もかつて「真理」を求めて東奔西走したからこそ、真理を求めて焦る人たちの気持ちに寄り添い、同じ目線で易しい。
よく聞く「手放す」ことについてボディアン氏は、生活のちょっとした瞬間に「気づき」を持つことでで目覚めの光のサポートがあると断言しています。
もし戦略があるとすれば一つ、いつも目覚めていることです。
エゴがあなたのハートを握りしめたり、肩を緊張させ、何かに抵抗したりすることに気づいたら、すぐに「誰が今、気がついているのか」「私とは誰か」と尋ねます。
このようにして、すぐにいつものプロセスから抜け出して、広々とした目覚めの空間に戻ります。
第8章 光を体現する より
正直当時はわけがわからず「???」なところも多かったのですが、この数年の間にある程度自分を見つめて内観をしてきたことで、すんなり受け入れられるところが増えていました。
購入した当時に今とでは理解の深さが違ったのか、読んでいる途中にちょっとした目覚め(見性)があり驚いています。
最近はこの手の本質を捉えた本だけを読んでいるので、毎日がすごくシンプルになってきた。
欲しいと思ったことが目の前に現れたり、いわゆる「シンクロニシティ」も増えたのですが、前ほど感動は少なくなりました。
「ああこんなもんだよね」って感じです。
どんなときも意識的に「今この瞬間」にあるのだと意識する、ただそれだけで内側を照らすことができるのです。
むしろそれこそが”目覚め”への唯一の道ではないかと。
『”それ”はある』もオススメです
ちなみに探していた本は、 『”それ”は在る 』という本でした。
グッときたところに付箋を貼りまくったおかげで、「ハリネズミ」のようになっていたのですが、やはり引っ越しのドサクサで捨ててしまったっぽいです…。😭
以前の記事でハリネズミ状態となった醜態を晒される『”それ”はある』↓↓↓↓
ここでやっと諦めがついた私は、AmazonでKindle化されていた同本を買うことにしました。
探していた本は電子となってスマホにすっぽり入るサイズになってしまいましたとさ。
これでもうなくすことはない…はず?
無くした方の単行本版はワープしてどこかのお家の戸棚に”出現”するかもしれません…
ではでは。