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実家が流される悲しさが分かるだろうか。10年前私の身近にいたある被災者の話をする


昨日は宮城を中心とする大きな地震があった。

地震が発生した時は、その日に限って夜自宅に一人でいたため、いつもと違う揺れ方だったので余計に怖かった。

しかも前回と同じく長く続いた地震だったので、ガスコンロの火を止めたり窓を開けたりする余裕があった。

久しぶりの大きな揺れに10年前のあの震災のことが頭をよぎった人も多いはずだ。

同時に、先月にも同じぐらいの規模の地震が福島で起きたことも。

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10年前の3月11日、あの東日本大震災が起きた。

震災からもう10年も経ったのかと言う人と、まだ10年しか経っていないのかと思う人もいるだろう。

私はどちらかと言うと前者だが、被災された人にとっては、まだ10年と思うに違いない。

当時、被災した友人の間近にいて、見聞きしたことや感じたことを記していく。

書こうかどうか迷ったが、私自身が忘れないための健忘録として。

(※名前や地域など個人が特定されないようボカシを入れている。)

原発から夜通し逃げて ─福島出身のある美容師さんの話

海
※画像はイメージです

震災があった3月11日になると思い出す、忘れられない人がいる。

10年前の震災時、いよいよ関東全域に向けた計画停電の話が現実になりつつあった頃、週末に私は髪を切ろうと行きつけの美容室へ行った。

こんな時に髪を切るのかと思うかもしれないが、当時私が住んでいた実家のある埼玉の片田舎は、震災の実害と呼べる被害はなかったため、割とすぐにいつもの日常に戻る事が出来た。

大震災のあと一時的に日本中は「自粛ムード」になり、民放のTVCMは打ち切られ公共機関が放映するCM一色になり、結婚式や祭事などのお祝い事やイベントも次々自粛をする。

街のショッピングモールからは店内BGMが消えた。

娘の保育園の卒園式を間近に控えていたが、式のあとに予定していた恒例行事である謝恩会は当然中止になり、それではあまりにもかわいそうだとの園長先生の配慮で、ちょっと豪華な仕出しのお弁当を頼んで卒園式の後親子みんなで食べたのを覚えている。

今でこそ新型コロナの影響によって「自粛」というものがどういったものか分かるし、ごく一般的に意識が浸透しているが、当時は「自粛」というものが馴染みがなく、それに加えて買占めによる物不足と福島第一原子力発電所の原発事故も重なり、被災をしていなくても毎日が穏やかに過ごすことは難しかったように思う。

被災した東北〜首都圏の人たちは特に、これから日本は自分の暮らしはどうなってしまうんだろう、と大いに混乱していたはずだ。

一歩間違えれば世界を巻き込む災禍を引き起こす「原発」というモンスターを抱えていた事、そしてそのモンスターが今、人間が制御できないままムクムクと膨れ上がり予断を許さない状態にある事…一進一退に片時も目が離せずTVをつけては消耗してた。

皮肉にも10年ごは新型コロナによって似たような不安の渦に飲まれてしまうのだが…。

とは言え、TVやラジオから連日のように流されるネガティブな情報で震災の悲惨さを知りつつも、街は普段と変わらず動いていたように思える。

話を戻す。

行きつけの美容室から来店OKが出たので早速行ってみると、普段はオシャレなBGMが流れる店内は静まり返り代わりにラジオが流れていた。

もし計画停電になったら店はしばらく閉店するかもしれないんだよね〜と、話してくれた美容師も表向きはにこやかだけどその内は不安でいっぱいなのだろう。終始顔は曇っていた。

シャンプーを終えると一人の若い美容アシスタントさんがマッサージをしてくれた。

知り合いの美容師が、ついこの間から手伝ってもらってるんだ、と紹介してくれたその美容師さんは、

「私この町のこと右も左も分からないんですよ〜!」とワハハと笑う。

それもそのはずで、ついこの間この町へ引っ越して来たばかりらしい。

えーこの時期に大変ですね!と言うと、実は〜・・と話し始めた彼女の口から、実家が被災してしまい家族や友人を地元の福島に置いて、ツテを頼って身一つで埼玉に来たことを知る。

そんな大変な身だったとはつゆ知らず、そのまま流れで震災の話になり、彼女は待ってましたと言わんばかりに、震災当時の様子をこと細かく教えてくれた。

「寝間着のまま今すぐ逃げてくれ」

原発
2427999 from Pixabay

その美容師さんはユカコさん(仮名)と言う。目がぱっちりとして色白で、肩までの明るい髪色が印象的な人だ。

ユカコさんは福島で生まれ育ち、実家周辺で婚約者と同棲しながら美容師として生計を立てている、どこにでもいるごく普通の若い美容師さんだ。

ただ私たちと違ったのはユカコさん一家は福島第一原発の近くに住んでいたことだ。

震災当日、激しい揺れで家の中はめちゃくちゃになったものの、津波の被害からは逃れたそうだ。

まだ続く余震の最中、婚約者とともにすぐ実家に駆けつけ、日が落ちてからは家族でラジオからの情報に耳を傾けていた。

夜もふけて来た頃、突然玄関をドンドンと激しく叩く音がした。

開けるとそこには作業員風の人、顔なじみの町長さんや上役が数人詰めかけていた。

いつも見せる町長さんの穏やかな顔とは違う物々しい様子に、ユカコさんの家族はすぐにただ事ではないと察したと言う。

「よく聞いてくれ。今日か明日、あそこの原発がまずいことになるかもしれない。詳しくはまた後で話すから、今すぐに一家で避難してほしい。」(この辺の会話内容は語弊があったらよくないのでボカしておく。)

押しかけた町長らの鬼気迫る様子に首を縦にふるしかなく、ユカコさん一家と近辺の住民は支持通り着の身着のまま身の回りの荷物だけをミニバンに積み込み、夜中慌ただしく家を後にした。

逃げると言ってもどこへ?─ 住民たちは車の列を作って一路、隣の山形県の避難所へ向かうことになる。

くねくね続く暗い峠を一晩中走り、山向こうの山形の避難所に着く頃にはもうすでに空が白んでいた。

避難所についてもすぐ別の避難所へと移ったりと、気の抜けない日々は続いた。

1〜2週間も風呂に入らなかったせいで髪がベタベタと固まり、痒みや頭皮のニオイが鼻にまとわりついて離れない。それもすごくストレスだったそうだ。

ましてユカコさんは人一倍オシャレに気を使う年頃だし、さらに美容師という立場もあって、その状況は察して身に余る。

ただ、そんなことはちっぽけな悩みに感じるくらい、ユカコさんが直面した状況は深刻だった。

ユカコさんは、ついさっきまでいた我が家がこれほど遠く感じることになるとは思わなかったと話した。

訳あってこんな知りもしない関東の片田舎に来て働く状況はいかに大変だろうか。

しばらくしてその美容室へ行った時は、すでにユカコさんは地元へ帰った後だった。

その後避難区域の住民は一時帰宅が許されたものの、TVでは町の様相は10年前で止まったまま、朽ちるばかりの民家の様子が映し出されている。

ユカコさんのご実家はどの辺にあるのだろうか。

「こっちでお金稼いで、早く地元帰ってまた家族や友人たちと過ごしたい。」

手際よく私の髪を梳きながら熱く語っていたユカコさん。今も平穏無事に愛する福島で幸せに暮らしていることを祈りたい。

実家も船も流された 岩手出身のある友人の話

震災当時、地元のある企業で派遣社員として働いていたことがある。

岩手出身の2つ上の同僚・マユちゃん(仮名)とは仲が良かった一人だ。

マユちゃんは高校卒業後に地元を離れ、就職でこっちへ来て今のご主人と知り合って結婚してからずっと埼玉に住んでいる。

港町で生まれ育ったならではのエピソードを話してくれるのだが、これがどれも面白いのである。

子どもの頃のおやつはカワハギだったとか、登校するのに学校まで片道徒歩で1時間かかったとか、同じ田舎でも山っ子生まれの私とは違った『田舎あるある』を聞かせてくれた。

震災当日、私とマユちゃんはなぜか同じタイミングで体調を崩し、たまたま二人とも会社を休んでいた。

「なんか今日すごく頭痛いんだよね〜。マユちゃんはどう?」 「私も調子悪い!〇〇係長のせいかな(笑)」

なんてメールでたわいもないことを話し合っていた。

2011年3月11日、マユちゃんの出身地である山間の静かな港町にも津波の魔の手は降りかかった。

港から遠いはずの実家は津波で流された。

地震直後、マユちゃんはいてもたってもいられなくなり、実家の両親に電話をかける。

矢つぎ早に、そっちの被害はどうか、大事ないかと聞くものの、電話口のお母さんはどこか上の空だったそうだ。

「こっちは大丈夫だよ。あー、また大きな地震がきた。…揺れてるわ。…えっ? 何?」

ツーツー。

ここでお母さんとの通話は突然切れてしまう。

その時確かに、電話越しだが遠くで誰かが叫んでいた「津波!」の言葉。

え、嘘でしょ!?はやる気持ちを抑えて、すぐ電話を掛け直すものの繋がらない。

TVをつけると大きな津波が東北を襲っているらしいことは分かった。テロップでは「気仙沼の海岸に数百の遺体」などと発表されて徐々に被害状況が分かってきた。

すっかり日が落ちて暗くなった部屋で、電気もつけず電話機の前でひたすら祈っていたそうだ。

その日以降、マユちゃんは両親と連絡がつかなくなる。

私とマユちゃんが働いていた職場は被害は免れたが、事情を汲んだ上司の計らいでマユちゃんは自宅待機となっていた。

親と連絡つかない…どうしよう。そう話すマユちゃんは、いつもの勝気な雰囲気とは違い、消え入るように弱々しかった。

甚大が被害が日に日に明らかになっていく状況をTVで観ながら、遠く離れた埼玉で何も出来ないマユちゃんの立場を思うと心苦しかったのを覚えている。

実家のある被災地へ向かう

海
※画像はイメージです

二週間経った頃、やっとご両親と連絡を取ることができた。

突然、お父さんからマユちゃん宅に電話が一本来たのだそうだ。

家と漁に行く為の船は津波に流されてしまったものの、ご両親はご無事で、親類の家に身を寄せているとのことだった。

喜びもつかの間、家財を一切合切流されてしまったせいで着の身着のままで暮らしていると聞き、いてもたってもいられなくなったマユちゃんとご主人は救援物資を届けに行く決意をする。

・・と言っても、ちょうど震災の影響を受けた埼玉も混乱の真っ只中。

スーパーからは、米やパン、カップラーメンなどが棚から消え、外ではガソリンを求めてガソリンスタンドに長蛇の列がで始めた頃である。

こちらでの暮らしも落ち着かないのに、果たして埼玉から被災地岩手に行くだけのガソリンや食料がまかなえるかのどうか・・。

ヨソ者と言われて

桜が咲き始めた頃、マユちゃん夫婦は車に少しの救援物資と食料を積んで一路、マユちゃんの故郷岩手のある町に向かった。

普段でも関東から岩手まで車でトータル10時間ぐらいかかる。

震災時は混乱しており、東北方面への高速道路は規制もあったため、実家のある岩手へたどり着くまでにえらい時間がかかったようだ。

何時間もかけてやっとたどり着いた地元でご両親と無事再会することができたが、ここで、住民から思わぬ冷たい視線を浴びることになる。

マユちゃんの生まれ育った集落では、一度嫁に行ったものは「ヨソ者」として見なされる、昔ながらのムラ社会そのものの風習が根強く残っているという。

「今更何をしに来たんだ。(ヨソ者の)あんたらの援助は必要ない。」

近所の住民が身を寄せる避難所で、そうピシャリと言われたこともあったそうだ。

口にこそ出さないけど住民の風当たりは厳しく、自分たちは蚊帳の外なのだとひしひしと感じたそうだ。

来た時期が悪かったのかもしれない。よりによって大津波によって町は甚大な被害を受けたのだ。住民に他所からの人に構う余裕はないのもよく分かる。

ヨソ者だから〜は、決して悪意から発せられた言葉ではなく、自分たちで立ち直ってみせるという決意の現れだったのかもしれない。

住民との温度差を受け入れて、せめて片付けの手伝いをしようと動いたものの、結局何も出来ず、マユちゃん夫婦は失意のまま地元を後にした。

再び埼玉へ向けて車で走り出すと、来た時は無我夢中でよく見えなかった津波の傷痕が辺り一面によく見えたそうだ。

マユちゃんが、獲れたてのイカはガラスのような透き通った色していると、自慢げに教えてくれたことを思い出した。海なし県山っ子育ちの私にはとても新鮮に映った話の一つだ。

岩手に帰って以降、マユちゃんは少しずつ元気を取り戻していったが、

「実家がもう”ない”って悲しいね・・。」

それからしばらく経って落ち着いた頃、マユちゃんがぽろっと言った言葉に、今でもたまに思い出して心がキュッとなることがある。

ご両親の商売道具である漁船も、生まれ育った家も流されてしまったが、幸いご両親はご無事だったのだ。命あってこそなのだ。

落ち込む顔をする、10年前のマユちゃんに向かって心の中で語りかけている。

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もしかすると、震災や水害などで被災した人にとって、ユカコさんやマユちゃんのような話はありふれた話に聞こえるのかもしれない。

事実、のちに知り合った南三陸の出身の人も、津波で実家が流されてもうないんだよね〜と、あっけらかんと話していて、マユちゃんと同じ状況の人が当たり前に存在することに言葉を失った。

何万という被災者がこのような辛い経験、いやもっと堪え難い経験をされているのかと思うと、どんなに街は元どおりになっても、心が元どおりになるにはまだ時間がかかるのだと思う。

今の子どもは震災を知らない?

中学生以下の子供たちは震災を知らない。当たり前だが最近この事実に知って衝撃を受けた。

仮にあなたが覚えている一番古い記憶はいくつの頃の記憶だろうか。

「物心がつく」とはよくいったもので、4〜5歳になると脳が発達して周りのことを関連づけて記憶するようになると言われている。

震災からすでに10年も(!)経っているので、震災のことをわずかにでも覚えているであろう、当時4〜5歳だった子が今や中三〜高校生になっている。

当時5歳だった我が娘に震災のことをどこまで覚えているか聞いてみたら、地震があった時ママがこう言った、誰が何を言った、窓のサッシがビリビリ揺れていて怖かった、など結構覚えていて子どもの記憶力に驚かされた。

信じられないかもしれないが、地震は怖くなかったそうだ。

それには訳があって、当時私が住んでいた実家のある田舎町は、硬い岩盤の上に立つ特徴的な地形のかいあってか、震災時でも大きく揺れることがなかったせいだ。

一方、同じ埼玉県でも関東平野にある浦和に住む友人の話では、横揺れで家具から物が落ちて散乱したというし、所沢以南の友人も同じような横揺れでめちゃくちゃ揺れたと言っていた。

今の子ども達もそうだし、今まで大きな地震を経験したことがない人はたくさんいる。

地震を経験したことで次に大きな地震が来ても何をすればいいか、経験をもとに動くことができるはずだ。

天災は忘れた頃にやって来る

最近では、おととしの台風15号の甚大な被害は記憶に新しい。

雨風の勢いが増してからはスマホのエリアメールが鳴り止まず、いざとなったら近くの小学校へ避難すべきか、それとも自宅待機すべきかと、外とTVを交互に見ながら気を揉めていたのを思い出す。

喉もの過ぎれば何とやらで、普段の日常に戻ると防災の事など忘れて危機感はすぐに消え失せてしまうのだが・・。

先日ある番組で、震災時に津波に襲われたものの素早く避難をしたことで奇跡的に助かった、岩手県釜石市の釜石東中学校の話を知った。

その中学校では震災の一年前から、大津波を想定して高台の避難所へ向けて全速力で走るという、独自の避難訓練をしていたそうだ。

震災があった3月11日は、先生が避難指示をするまでもなく、生徒たちは自主的に避難所へ向けて全力で走り出し、津波は避難所のほんの5メートル下まで迫ったものの、中学生と町の住民は無事避難に成功してことなきを得て今では「釜石の奇跡」とよばれている。

そこまでとは言わないが、災害時にどうやって家族と連絡をつけるのか、自宅から近い避難場所の確保ぐらいはしておきたい。

災害は忘れた頃にやってくると言う。

日本にいる以上自然災害からは免れないし、それは明日来るかもしれないし、身近な誰かだったり自分も被災するかもしれないと頭の隅に入れておく必要がある。

唯一出来ることは、不測の事態に向けて防災グッズを用意して普段から備えをしておくことだ。

むしろそれしか出来ないし、それ以上の防災は出来ないのが現状だ。

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美容師のユカコさんも、マユちゃんもその後、お互い環境が変わったりといろいろあって、すっかり疎遠となってしまった。

特に美容師ユカコさんに至っては震災直後に美容室で一回会ったのみである。

今どんな生活を送っているのか知る由もないが、大変な立場にあっても前向きで太陽のようにエネルギッシュで明るい方だったので今も福島で元気に暮らしていると信じている。

繰り返すが、個人を特定されないよう適度に話しにボカシを入れていることをご了承いただきたい。

最後に、ペラペラと勝手に身の上をブログで語ってしまったことをこの場を借りてお二人に謝りたい。

まだ答えは見つからない。