amazonプライムビデオでレビュー数がハンパなかったので気になり、
あんまり期待せずに観たはずなのに、
まさかラストでむせび泣くとは思わなかったヤバい映画―。
フランソワ・クリュゼ、 オマール・シー主演の「最強のふたり」です。
でもね。ジャケットのコメディタッチな見た目がまずいけない。
映画ジャケットの見た目のポップさから「車いすのダンディが黒人アニキとタッグを組んでNYで派手にやらかすぜ!」みたいな量産型コメディ映画だと勝手に連想していたのです。
映画を観るとすぐに野暮な先入観はたちまち消え失せ、生きることは何か、友情とは何か、そして私たちは 何をするために生まれて来たのか、触れるのがちょっぴり怖いけど誰もが抱えて続けている感情が、静かに揺らされていることに気がつきます。
瞑想のような静かな感動が心を満たし、いつの間にか安っぽい先入観を抱いていたことすら忘れてしまうほど”最高の”映画がここにありました。
ギャングとセレブ、ヒップホップとショパン。
日本人はとかくフランス、特にパリに対して並々ならぬ感情を抱いているものです。
エッフェル塔の下で華やかでおしゃれでエスプリ溢れたパリジェンヌたちが愛を囁きあっている─。羨望の「おフランス像」はその最たるものでしょう。
憧れてフランスに留学した学生が、パリで生活をする理想と現実のギャップを嫌というほど見せつけられて、失望したあげく帰国する「パリ症候群」なんて言葉も生まれました。
フランスは今、移民の問題を抱えていてテロも頻発した緊迫状態にある、明治以降日本が勝手に抱いてきた「おフランス」のイメージは徐々に地に着いたものとなってきたように思います。
話を戻すと、「最強のふたり」はフランスのいま、決められた階級社会の中に生きるパリ人をコミカルなテンポで描いていきます。 ↓
事故で全身麻痺となり、車いす生活を送る富豪と、図らずして介護役に抜擢されたスラム出身の黒人青年。
共通点はゼロ。高級住宅地とスラム、ショパンとクール&ザ・ギャング、超高級スーツとスウェット、洗練された会話と下ネタ、車いすとソウル・ミュージックに乗ってバンプする身体―。
二人の世界は衝突し続けるが、やがて互いを受け入れ、とんでもなくユーモアに富んだ最強の友情が生まれていく。
(amazonビデオ「最強のふたり」あらすじより)
↓以下ちょっとだけネタバレあります。
主人公は首から下が不自由で車いすの大富豪フィリップ、黒人のドリスは家から追い出されたばかりのゴロツキです。
フィリップの住む家の周りは整備され、美しく整えられたファブリックにはほころびもなく、仕立ての良いスーツ、社交界の白人富裕層たちがバロック音楽をバックにおしゃべりに花を咲かせている。
美と秩序に彩られた、むせるようなパリ社交界の濃厚さは「これがパリの社交界だよ」と観るものの顔をひと撫でしてくる。
一方、ドリスの家の周りにあるのはたむろする有色人種の仲間たち。夜の寒々しい駅から、帰宅へと急ぐ移民たちの人の波、貧困層が身を寄せ合って住む殺風景で無機質なアパートメント群。
物に色味はなく、顔に正気もなく、朝になると吸い寄せられるように職場に行き、
同じパリの空気の下、二つの世界が対照的に描かれます。
冒頭ではフィリップとドリスがマセラッティのV8クーペで乾いた幹線道路をぶっ飛ばしながら、小細工で警察の手をかい潜り、何かに駆り立てられたようにひたすら車を走らせ、どこかへ向かっている。
どこへ?
黒人と初老の白人。
そもそもどんな出会いがあったのだろうか。
分かり合えないもの同士が融合する
静と動、貧と富、水と油。
これらは相反するものであり、「静」があるから「動」が比較対象となって浮き彫りになってくる。
「貧しい」も然りだ。「富めるもの」があるから相対的に何かが「貧しい」と感じる。
正反対にあるからこそ、一番近くに感じられるものなのでしょう。
何ごとにもルールに縛られず柔軟な思考を持つ「自由人」のドリスと、巧みな自制心で慎重に物事を進める「秩序」のフィリップは、水と油の関係と言うよりは、子供と大人を見ているような錯覚さえ覚えます。
- ドリス(思考が子どもベース)=直感重視で本能的、瞬発力、見切り発車、ノールール
- フィリップ(思考が大人ベース)=理性、論理的、石橋を叩いて渡る、ルール重視
子どものように無邪気な心を持つドリスは、突拍子もない行動から時々(というかいつも)フィリップとフィリップの周りの優等生軍団を驚かせます。
車いすの富豪・フィリップは、過去に自分に起きた”ある出来事”をきっかけに心を閉ざしてしまいます。
かつての情熱と希望をぎゅうぎゅうと心の奥底へ押さえ込み、誰にも邪魔されない分厚い壁を築き、まるで文豪のように内的な知的活動に耽ることで社会から自分をシャットアウトします。
ドリスはフィリップが作った「常識」とか「秩序」の枠をバッサバッサと切り倒し、フィリップが自分の周りに築いた分厚くて壁をこれでもかとノックし続けるのです。
でも、実際にドリスのような自由人が周りにいたらたまったものじゃありません。あなたが禁止していることを悪びれる様子も無く、堂々と目の前でやってしまうんですもの。
フィリップの鳥かご、ドリスの”見えない”鳥かご。
ある時は自分を守るために作った鳥かご、そしてある時は誰かによって勝手に作られてしまった鳥かご。二人には自分の鳥かごを自らの力で壊す時が必要なのです─。
私達は自分の枠の中でしか生きていない
生まれ育った環境、親、容姿は選べません。「宿命」というヤツですね。
生まれ育った環境である程度人生の型が決められてしまうのは仕方ないかもしれません。
人間は自分の見たい世界しか見えないようになっている
と聞いた事があります。
私達が見ている世界はすべてあなたのフィルターを遠してしか見る事が出来ない。
自分が見えない世界=存在しないも同然なんだと。
ですから自分の枠、この場合の枠は自分がこうだと信じた倫理観とか価値観の許容範囲ですかね、
自分の住む世界という言葉がしっくりくるでしょうか。
人間は自分の見たい世界しか見えないようになっている。枠の外に住む世界の人とは知り合えないようになっている。
本当にそうでしょうか。
居心地のイイ枠の外に答えがあるかもよ?
私達はよく「変わりたいけど変われない」と言います。
どんな良い本を読んでも結局変われない。
それはあなたが悪いんじゃないんです。
結局私達は自分の枠の中の世界しか見る事が出来ないので
枠の中にいる人、枠の中のモノ、枠の中の環境
これを変える=枠の外に出ることをしないと
枠の中で必死でもがいても意味がなかったりするのではないでしょうか。
私もかなりの長い間、この自分の知っている枠の中で
もがいていました。
結局枠の外を知らないし、自分の知っている範囲の世界が居心地いいからです。
多くの人がこの「自分の居心地のイイ枠」から出ようとしません。
だからあえて住む世界が違う人と知り合うとすんごいブレークスルーがあったりします。
「そんな事知らなかった!ヤッホー!!」という壮快感を伴う事もあります。
昔のエライ人はこんなことを言っていました。
時間を変えなさい。人を変えなさい。環境を変えなさい。そうすればあなたが変わる。
あなたが知り得る「枠」の外からやってくる出来事や人には、あなたの人生を変えるだけの力があるのです。
むしろ、人生を変える鍵はあなたが慣れ親しんで離さない「枠」の中にはありません。
枠の外からしかやってこないのです。
ふんわり居心地意いいエリアから無理やり飛び出したところに、自分を高みに突き上げてくれる答えがゴロゴロ転がっているということを映画は教えてくれます。
映画のドリスとフィリップが「枠」を越えようとした時、奇跡が起きるのです。
人間の崇高な意志。助け合う美しさ、人間が「あるがまま」の愉快さ、人間の尊さ─。
最後のシーンに声をあげてむせび泣いたのは久しぶりでした良い映画です。
でもそんな住む世界が違うドリスとフィリップがなぜ分り合えたのか、それは映画を観てからのお楽しみということで。
\amazonプライム会員なら無料で観れます。/
劇中のピアノソロ曲が美し過ぎて、完全に心を奪われたのでサントラを買ってしまいました。
あのピアノの哀愁ただようリフレインが印象的な挿入歌は「UNA MATTINA 」という曲だと判明。
どことなく憂いのある、澄んだ音色に心が洗われます。
ではでは。