テキトーエレガンス

テキトーでも人生うまくいく!

【最後のイタコ】南部イタコ・松田広子さんに会いに行ってきた!【in 青森】


こんにちは。BlissBliss⋆*@テキトーでもうまくいくです。

10月1日に緊急事態宣言とまん延防止措置法が半年ぶりに全国で一斉解除され、自粛続きで低迷しまくいっている中とても明るい話題となった。

そんな中、今月始まって早々にある大きな決断をした。

以前から気になっていたものの、ず〜っと迷っていた人へ逢いに行ってみることにしたのだ。

逢いに行くと言ってもあくまで”お客さん”としてなんだけど…。

それでも小心者の私にとってちょっと勇気が必要だった。

その会いたい方とは、『最後のイタコ』として一時期TVなどで紹介されたこともあり、自らの自伝を綴った著書もある青森県在住の南部イタコ・松田広子さんだ。

以前何かのきっかけで松田広子氏の著書を読んだことがあり、TVにも出ていてうっすら関心は頭の片隅にあった。

たまたまAmazonアンリミテッドで公開されていたコミックエッセイ『八戸イタコ紀行 (山本まゆり著)』を読んでその関心が再び蘇ったことで、これは何かに呼ばれたような気がして行ってみたい衝動が込み上げてきた。

よし行こうと決めたら早い。私はビビリな癖にフットワークは軽いのである。

松田広子氏とコンタクトを取りすぐ日にちの調整をしてもらい、実際に本物のイタコに会いに行くことが決定した。

イタコって何?イタコについて知っておこう

それにはまず、イタコって何?という方のために、イタコについて簡単にお話ししなければいけない。

多少情報が間違っているかもしれないがご容赦ください。

南部イタコ・松田広子氏が活躍する南部イタコのホームタウンは、青森県八戸市にある。

イタコって聞くと、つい『あなたの知らない世界』とか『宜保愛子』『木村藤子』がすぐ思い浮かんでしまうあなたは40代以上に違いない。

だって昔、TVの心霊特集によく出ていた恐山のイタコは皆お年を召した老婆で、一心不乱にお念仏を唱えながら冥土にいる霊魂を降ろするのである。もうこれだけで子供をビビらすには十分すぎるイメージの完成だ。

吹きすさぶ寒空の下、年季が入ったおやしろに佇む苔むしたお地蔵さま─その傍らで風車が無邪気にカラカラと回っている─そんなメチャ怖な恐山のオープニング映像が流れたりする。

これでは子どもには怖いもの恐ろしいものとして映るだろう。とにかく昔の心霊番組は構成からなにからなにまで怖すぎたのもある!

子どもにイタコ=怖いのイメージを植え付けたTVのせいだ。うんそうだ。

何かのきっかけを得なければおそらく一生この怖いイメージのままだったろう。

怖〜い怖いイメージの強かった『イタコ』を身近に感じさせてくれるきっかけとなったのが、さっきの本『最後のイタコ (松田広子:著)』と、漫画家の山本まゆり氏が松田広子氏の口寄せを実際に体験して取材したコミックエッセイ『八戸イタコ紀行 松田広子・山本まゆり』だった。


イタコっていまだにいるの??とお思いかもしれないが、いらっしゃるのである。

『最後のイタコ』は、そんなイタコの一人として、現役で活躍されている松田広子氏が書いた本だ。

ここからは親しみを込めて松田さんと呼ぶことにする。

松田さんは青森県八戸市を由来とする北東北南部のイタコとして、最年少でイタコとなった方だ。

イタコの職種は元々、盲目な女性の働き口として遥か昔から存在していて、一説には「目が見えないことで第六感のようなものが働くと信じられていた」とは、後に出てくる八戸のタクシー運転手さんが言っていたことだ。

松田さんは健常者だが、子供の頃からイタコに憧れがあり、高校卒業するとすぐに憧れだったイタコの師匠の元へ弟子入りを果たす。その後厳しい修行を経て、亡き魂を呼び寄せるイタコ(口寄せ)として現在も「最年少」のイタコとなっている。

最年少、というだけあってイタコは後継者不足である。高齢なイタコは引退を余儀なくされ、松田さんを残して数人しかいない現状だと本で知った。

んなわけで、もっと細かいところは松田さんの著書を読んでいただくとして、いちおうイタコについて前知識を得た私が、イタコへの興味と亡き人に会いたい気持ちもあり、遥か本州の最北端、青森は八戸に高校生の娘と二人で向かうことになったのだ。

この青森旅行で嬉しいことがもう一つ。

子どもか!とツッコまれそうだが、憧れの「はやぶさ」に乗れたことだ!!

大宮に住んでいるので『はやぶさ』はしょっちゅう見ているのだが、いざ乗るの初めてなのだ。

出発は平日の朝だったが、目が冷めるような艶かしいエメラルドグリーンのボディに心を奪われた私はシャッターを切りまくった。

興奮しながらはやぶさの座席に着くと、時を待たずして定刻通りに大宮駅を出発。ここから八戸までは所要時間約3時間。総移動距離なんと600kmの長い旅が始まる。

はやぶさの車窓には、埼玉の市街地〜北関東の畔道〜東北地方の水田が延々と広がる風景へと、移り変わって行く風景が刻々と映し出される。

3時間とはいえ、風景を見ているとあっという間に過ぎていくものである。


※イタコの口寄せは基本的に松田さん宅で行うため、住所や電話番号などは一切記載していない。なので口寄せの予約は松田氏のHPから自分で連絡を取る方法に限られている。
まず申し込みメールを送るとイタコ保存会の方から返信メールが届くので、そこに記された電話番号へ直接電話をかけて予約を取る…という流れになる。

大雨の八戸駅。ここからさらに本八戸へ向かう

まずは一路「八戸駅」へ進む。

午前11時半に八戸駅についたのだが、台風の影響で小雨がパラついていたのもあり着いて早々肌寒い思いをする。念のため持ってきたタイツがここで活躍した。

新幹線の止まる八戸駅から松田さんの自宅のある「本八戸」までは電車で10分の距離にある。

ここで忘れてはならないのが、青森もそうだが地方は車社会なので、電車の本数はとても少なく、1時間に1本が当たり前。

公共機関を使うと「電車で10分」の距離に苦しめられることがザラにある。

これを念頭に置いておいて行動しないと、電車に乗り遅れたりしてエライ目にあう。ホームで待っていればいつでも電車がやってくる便利さに慣れまくった私には厳しいものとなった。

いざ着いたものの、あと2時間電車が来ない…なんてことにならないよう、出発前に時刻表を確認しておこう。

f:id:Bliss_Blink:20211006175623j:plainf:id:Bliss_Blink:20211006175559j:plain
上:八戸到着。遠かった…
下:八戸駅の「青い森鉄道」がカワイイ。撮り鉄ではないが旅行先で必ず鉄道を撮ってしまう。

「JR八戸線 鮫行き」に乗り、本八戸駅で降りたらタクシーに乗るのだが、この時点で松田さんの家がどこにあるのかは知らない。ではどうやって行くのか。

本八戸のタクシーなら誰でも松田さん家を知っているのだそうだ。八戸では誰もが知る有名人なのは間違いないがそれにしてもスゴイ。

(その昔、東村山駅のタクシーはみんな志村けんの家を知っていると聞いたことを思い出した)

なので、場所は知らなくても本八戸駅のタクシーの運転手さんに「イタコの松田さんの家」と伝えるだけで乗せて行ってくれるので信用して構わないだろう。

んなわけで、行き先も分からないままだが、松田さんちとだけ伝えると運転手さんは慣れた感じでハンドルを操り、すごい早さで駅を後にした。

この道中、運転手のおっちゃんは同じ県内に住む超大物霊能者の話を始めた。誰でも聞いたことがあるその霊能者は、ある番組で一躍その名を広めたことで、今でも予約すると半年待ちがデフォなんだそう。

運転手のおっちゃんは過去にはお客さんを、八戸からその霊能者の家まで乗せて行ったこともあると豪語していた。

いやいや、これから行くのは松田さんの所なんだけど〜!とツッコミ入れるのもめんどくさかったので、おっちゃんの霊能者の話をハイハイ聞いていた。それにしてもおっちゃんよく喋る。

松田さんに会う前でめちゃくちゃ緊張していたので、おっちゃんトークのおかげで緊張は解れたが、松田さんの話もして欲しかったのが正直なところ。

駅周辺は大きな国道とバイパス沿いにロードサイド型のチェーン店が並ぶ、地方特有の街並みが続いた。

いよいよ松田さんと対面だ。ドキドキ。

JR本八戸駅。新幹線の止まる八戸駅から電車で10分で着くが、昼間は往復ともに1時間に1本がデフォなので注意。タクシー乗り場は反対側の出口にある。

松田さん宅を訪問。ここで失敗に気づく

無事松田さん家の前へ到着。住所を言わずとも本当に着いたので驚いた。

帰りはまたタクシーを呼ばなきゃいけないからと、このまま30〜40分ここで待ってるけどいなかったら電話して〜と、おっちゃんから名刺を渡された。

ちゃっかり営業しちゃってごめんね〜と笑っていたが、ここは交通の便が悪いので逆に助かったのは言うまでもない。

個人を特定されない範囲で言えるのは、本当にご自宅で口寄せされているんだと驚くほど、ごくありふれた住宅街に降ろされたことだ。

ドアチャイムを鳴らすとご家族の方が出てきて、先客がまだ終わっていなくて…と申し訳なさそうに告げられ、じゃあとそのまま玄関内で待たせてもらった。

そのうち、部屋の奥から一匹の猫ちゃんが現れて初対面の私たちにすごく懐いてきた。

愛嬌たっぷりでゴロゴロしてくるが、私たちが猫ちゃんに気を取られたその隙を見計らって玄関ドアに突進するのである。

玄関の外に出たいらしいが、玄関前に到達する前にそうはさせまいフヘヘ!と、ムンズと掴んで戻す。またスリスリゴツンしてくる、隙を見て玄関に突進してくる…を繰り返し、少しの間猫ちゃんと攻防を楽しんだ。

ちょうどここで先客が帰ったので通されたが、猫ちゃんの思いがけないおもてなしを受けた後なので、もっと遊びたいから待ってもいいですよ、と思わず言いそうになったのは内緒だ。

数人連れの先客がにこやかに出ていくのを見届けて、私たちもどうぞと座敷へ上がらせてもらった。

その先客の後ろから法衣を着た小柄な女性が現れた。松田さんだ。

本で見た通りの穏やかな物腰の普通の女性だが、瞳の奥は俗世と切り離された物を見つめ続けているような、どこか独特の眼差しをされている。

手土産をお渡しして、そのまま奥の座敷に通されると、松田さんはすぐ私たちが持参した手土産を仏様にお供えした。

ここで失敗に気づいた。

まさか手土産をあのままお供え物にするとは聞いていなかったので、前日に私が手土産でセレクトしたのは仏様向けではない、チャラい洋菓子だ。

お供え物にすると知っていたら、もっとこうちゃんと熨斗つけた和菓子にしたのに〜!とエライ後悔した。

松田さんが上座に座り、簡単な挨拶の後、差し出された紙に会いたい人の名前や享年、命日などを記入した。

会いたい人はもちろん、このブログでも度々登場した亡き母だ。

松田さんからは、母の死因や私の家庭環境などを聞かれ、つとめて冷静に説明したが、この時実は胸がいっぱいになっていた。

母に会えるのだろうかという期待と不安が入り混じり、目の前の松田さんに向かって母への思いを伝えようと気持ちばかり先走りしていた。

まだ何も始まっていないのに隣にいる娘はもう号泣していた。早い。まだ何も始まっていない。

あまりにメソメソ泣く娘に釣られて、私も涙腺がウルっときたが、ここでなんとか堪える。

では始めます、と松田さんは一言おっしゃると、くるりと仏様の方を向き、お数珠をたぐりながら仏様に向かって何やら唱え出した。

お経や祝詞のことはよく分からないが、歌うように唱えている感じ『詠唱』に近いかもしれない。

ここでは仮にそれを『お念仏』と書くことにする。

いざ、亡き母の口寄せが始まった。

どのくらい唱えていだろうか。松田さんのお念仏が続く間、私たちは母の魂が降りて来るのを静かに待っていた。

その時はやってきた。

松田さんのお念仏の声色が突然スッと高くなり、お念仏がそのまま、流れるように話し言葉になったような気がした。

母が来た。

「まだまだ生きたいと思ったんだけど、急に体が弱くなっちゃってね…」と語り出した。

母は松田さんの声を借りているが、喋り方は確かに母のようでもある。

しばらく母は、病院のベッドの上で息を引き取るまで体の痛みや苦しさについていろいろ教えてくれた。

これは本人しか知り得ないことなので、本当だったかどうか検証しようなんて野暮なことはしないが、母を看取った弟と父に聞いてみたくなった。

そもそもここに来た一番の目的は、病気が進行してあっという間に逝ってしまった母に、イタコの力を借りてもう心配ないよってことを伝えたかったので、母の死後はバタバタしたものの、みんなで手分けして母の身辺整理をして無事終えたことをちゃんと伝えた。

母にその由を伝えると、てっきり安心しきってくれるかと思ったら実際はさらに心配させてしまった。というかあの世でも心配性のようだった。

母は娘の夢に対してそんなんじゃ甘い、こうした方がいい、社会経験を積むにはこうすればいい、といろいろ諭してくれたのだが、どれもちょっと的外れな感じだった。

あーうん、うん、こんな感じよねオカンって…と急に冷静になったのか涙は引っ込んだ。ちょっと口うるさいのが生前の母そっくりである。

はるばる青森の、しかも他人のお宅にお邪魔してまで母のお説教を食らうとは思わなかったのである。 母のペースで話が進んだことで微妙〜な雰囲気に包まれ、これじゃとても涙を流す余裕はない。

しかも私の質問をうんうん、と聞くふりをしてこっちの言っていることは上の空で、別のことを話し出すマイペースなところも生前の母そのものだ。

「ずっと母のターン」に、私はすっかり小さくなっていて、母の言うことを聞き流して…もとい、聞き入っていた。

最後までお母さんモードだったわけではなく、ところどころに母の気遣いや優しさがあった。

何より嬉しかったことは、急に口調が柔らかくなって「はるばる(青森まで)よく来てくれたね〜^^」と言ってくれたことだ。

生前の母に向かってなら、そりゃ遠いよ!!青森なんて来たことないし、それに新幹線代5万だよ!?5万!!ギャハハ!とウケ狙って大爆笑を誘いたいところだが、ここは松田さんの前なのでグッと抑えた。

なので、ばあば(母)に会いにはるばるここに来てイタコの松田さんの力をお借りしたんだよ〜と、口寄せに至るまでの経緯を手短に伝えた。これは事実だし、本当に母に会いたかったからで決して嘘ではない。

終末期になって体の自由が利かなくなってしまった母が、死の直前まで心配していたのは家計やお金のことだったので、この辺は全て解決したから心配ないとも伝えることができた。

そんなことは知ってるよと言わんばかりに母は頷いていた。

最期、息を引き取るまでに感じた体の変化についても話してくれたのは意外だった。

10分かそのぐらい話しをしただろうか。再びお別れの流れになり、

ばあばも頑張ってね!と伝えると満足したのか、

「こっちはこっちで頑張るから、応援しているからそっちはそっちで頑張りなさい。」

「私はちゃんと成仏しています。だから安心して生きていてください~」と言葉を残すと、

そのまま流れるように最初に聞いた松田さんのお念仏に変わっていき、15分ほどの口寄せはお念仏で終了した。

松田さんのお念仏は終わり、何事もなかったように仏像のそばのロウソクの火が揺れていた。

イタコの「口寄せ」を終えて。率直な感想を言ってみる。

正直なことを言おう。イタコをまるっきり信じていたわけではなく、私はイタコに会うまでだいぶ半信半疑だった。

イタコ含め霊能に関することに対して懐疑的な人はすごく多いので、変に詮索されたりもしたくないので周りにはイタコに会いに行くことは内緒にしていたぐらいだ。

特に現実ファーストで、スピリチュアルなことに一切理解を示さない私の弟にはこれからも言うつもりはない。

結局のところ、松田さんの口寄せによって、懐かしい母の喋り方などを感じ取ることができたが、母との会話の中で、母が生前よく使っていた言葉ではない言い回しが妙に気になったり、こちらの質問に対して母のレスポンスが的を得なかったりと、ところどころ違和感を感じたことは否めない。

ある意味それで依存しようとした心にストップがかかったおかげで、最後まで冷静にやり取りすることができた。

泣き虫なのでいざ口寄せが始まったら「お母さぁぁああん」なんて号泣するだろうと予想をしていたのにこれは自分でも驚いているぐらいだ。

故人が伝えてくるメッセージをどう受け止めるかは千差万別で、人それぞれ信じる信じないはあるし、違った捉え方があっていいと思う。

娘もこの辺は肯定的で、松田さんによる母の口寄せにはおおむね満足しているようだ。

娘はちょうど多感な時期なので、あの世から降りて来た母の存在を微かにでも感じ取ったのかもとしれない。あとから本人に聞いたところ、やはり娘からすると松田さん伝いでも母からの言葉だと感じ取ったらしく、

「私のことばかり言っているのが、ばぁば(母)だと思った」だそうだ。

確かに、母はつねづね孫である娘のことを心配していて、晩年は娘の不登校の時期と重なったのもあり、最期まで娘のことを気にかけていた。

これは上に書いた松田さんの自伝にも書いてあることなのだが、イタコはそもそも仏様に自分の体を譲り「憑依」させる降霊ではなく、どちらかと言うと仏様のそばで仏様から受けたメッセージや想念のようなものをイタコの言葉で伝えるという「メッセンジャー」としての役割が近いのだそうだ。

長い歴史の中で、イタコはカウンセラーや占い師として、住民の悩みや苦しみに寄り添って来た経緯があり、松田さんもまた、病弱だった子供の頃からかかりつけのイタコの元へ行ってはまじないをしてもらっている。

イタコは故人の口寄せや占いをするだけではなく「オシラセ様」と呼ばれる神様を操って神事を行ったり、人と見えない物をを結ぶ大きなメッセンジャーとして住民には欠かせない存在だ。

このオシラセ様、土地によってさまざまな伝承が伝わっているそうだ。地元ではちょっと怖いイメージが先行しているのだが、子どもが大好きで子どもと遊ばせたりするととても喜ぶという、とてもお茶目な神様である。

こういった民話・郷土史などに興味ある方は是非関連本を読んでいただきたい。

んなわけで。

そして念願のイタコ松田さんとの口寄せ体験を終え、松田さん宅を出ると、あのタクシーの運転手さんが外で待っててくれた。この商売上手!!とツッコミたくなりそうになったがホンネはすごく助かった。

運転手のオッチャンは感想を聞きたいようだったが、遠慮している感じだったのでこちらから教えてあげた。

オッチャンはホッとした様子で笑顔になるとまた饒舌になり、聞いてもいないことを喋り出して、行きと同様にまた車中は賑やかになった。言わなきゃよかった。

どのお客さんも「スッキリした」「会ってよかった」と言って晴れ晴れとした顔で帰っていくのだと言っていた。

何より危惧しているのがイタコの高齢化であり、今も現役でやっているのは松田さんを残してもう一人だけだと語るオッチャンの目は曇っている。その中でも松田さんは最年少なので、伝統を受け継いでいくプレッシャーは相当なものだろうと察した。

松田さんとはわずか20分しかお会いしていないが、背中からは何としても保存していくという気概というか覚悟のようなものを感じ取った。

青森米プロムナードから浅虫温泉方面を望む。海が真っ青で近くにあるこのダイナミックさに感動。

おまけ!八戸から新青森へ行ってみた。

ちなみにこのあと本八戸駅から八戸駅に戻り、八戸駅からさらに東北新幹線で北上、新青森でホテルのある青森駅まで乗り換える予定だった。

ここで一つ落とし穴がある。本八戸駅は15時代には電車が来ない。平日の午後はたいてい一本も電車が来ない時間が存在するのは田舎あるあるだ。

本八戸駅から八戸駅までの電車が来るのが2時間後だという。これはとんでもないロスである。

まんまと本八戸駅で足止めをくらった私たちは、急きょ本八戸駅から八戸駅までタクシーで行くことにした。

本八戸駅から八戸駅まで約6kmあり、タクシー初乗りは料金が670円でトータル2,500円弱で行くことができた。。助かった。。

もし時間がたっぷりあるなら青い森鉄道で青森まで北上するのも良い。だけど青森駅到着まで時間かかりすぎでホテルのチェックインの時間もあり、今回はしぶしぶ断念!

すっかり超高速移動に慣れっこになってしまった私には鈍行で1時間半、しかも日が暮れて真っ暗な田舎道を進む電車に乗るのはいくら旅とはいえ気が進まない…。

八戸駅内のみどりの窓口でおとなしく新幹線の切符を購入した。

八戸から青森まで青い森鉄道(黄色い線)の乗ると所要時間1時間30分。
日が暮れてしまうので今回は新幹線で行くことにした。

この時初めて知ったのだが、東北新幹線には「自由席」がない。

原則はやぶさは全席指定なので仕方ないのだが、事実上「自由席」として「特定特急券」がある。

調べたら盛岡から新函館北斗までの区間のみに適用になる特急券で、空いてる席に座っていいよ!もしその席の指定席を買っている人が来たらどいてね〜♪ というチケットだ。

いわば自由席券なのだが、大人二人で7,000円弱なのでお手頃に乗れるし、普通の特急の乗車券買うより新幹線の方が断然早いしコスパも最高なのである。

しかも新青森駅まで所有時間は驚きの約27分!ローカル線ならではの情緒を求めず即移動したいなら、新幹線一択で。

そして、やっぱりと言えばやっぱりなのだが、指定席なんて買わなくて正解だった。

新幹線に乗ってみたら席はガラガラだった。

これで採算取れているのだろうかと、平日の夕方の下りともあってあらぬ心配をしそうなほど席はまばらで空席ばかり。まさしく「空気を輸送」していると揶揄されるあの感じなのである。

『新幹線が止まるほう』の新青森駅。(翌日撮影)

繁忙期の新潟新幹線や東海道新幹線しか乗って来なかった私には、嫌味じゃなくこのガラガラな車両はとても新鮮に写った。

 
上:『新幹線が止まらないほう』の青森駅。青森市内いたるところに『ねぷた』が展示されていて迫力満点。今年もコロナの影響で中止になったとタクシーの運転手さんは肩を落としていた…。
下:折り紙で作ったりんごちゃんの飾りが可愛い😻

青森に着いた時間はもう日が落ちていたのと、雨が降っていたのもあり街の全景がよく分からなかったが、翌朝にホテルの窓を見て、そこで初めて青森駅周辺は真っ青な海が一面に見える場所にあったということが判明。

翌日は観光をして行くことにした。美味しいお店やお土産などもゲットしたので、それはまた次回写真を載せていこうと思う。

ではでは。

松田さん含め、こんなご時世にお家にあげてくれた松田さんのご家族の皆さま、松田さんに取り次いでくれた会長様にはこの場を借りてお礼を申し上げます。

※当ブログで書いていることはあくまで個人の感想であり、当ブログと松田さんは一切関係ありません。🙇‍♀️
面白おかしく書いているのは私の性分なのですみません、一部気に触る文言があったらスルーしてください。
青森・八戸地方の郷土に今も脈々と受け継がれている、南部イタコ文化が続くように尊敬の思いを込めて…。